すべては何かのために vol.7

慎STYLE

大学を卒業後岡山に帰り、湯郷BELLE・作陽高等学校にお世話になった。

湯郷BELLEに男性スタッフとして入らせてもらったことも、作陽高で舎監をしたりしながらのサッカー部スタッフという形も初でした。ダブルで初を頂いた。

この2つに辿り着いたのも大学時代に当時桐蔭横浜大学の監督の風間八宏氏と湯郷BELLEの監督の本田美登里氏が呑んでたところに居た事がキッカケでした。

冗談まじりで「Jリーグチームに入れず、行くところがなかったら、岡山に帰るので面倒みてください」との言葉が現実になるとはその時は全く思っていなかった。

大学4年間が終わり、卒業生送る会をしてくれた時に風間八宏氏が「この4年間で一番成長したのはこの男だ」と肩を叩いたのが当時桐蔭横浜大学サッカー部コーチの八城修氏でした。八城修氏は現在桐蔭横浜大学サッカー部総監督や桐蔭学園高等学校の監督をされている。んんん?あれ?みたいな感覚ではあったが、実際に同じ時間を共有しているにしても変化が大きかったのかもしれない。

それを聞いてサッカーの知識の幅や奥深さを知るには教える立場を経験すれば、サッカーが上手くなるのではないかと瞬間的に思った。

その事もあり、緊張しながらも本田美登里氏に電話したのを今でも忘れはしない。

電話してなければ今のサッカーの関わりになってないかもしれない。

その後湯郷BELLEでお世話になるのだが、女子チームのために男性スタッフの雇用がなかった。そこで県北繋がりの作陽高に就職のお願いしたのでしょうが、それが湯郷BELLEと作陽高の両立が始まることになる。

社会人1年目に初の女子チームのコーチ・初の指導者などなど・・・初の経験数知れず。濃い学びは多かったように思う。

休みは片手で数えれるほどではあったが、規則正しい生活ですごせたおかげで体重も7~8キロ減ったり、湯郷BELLEの選手や高校生と一緒にサッカーが出来て、充実した毎日というか怒涛の毎日を送れました。

2002年は日韓ワールドカップの年で美作にスロベニアが来てくれたおかげもあり、身近にワールドカップに触れることも出来た。

その中でも記憶に残るのは当時の湯郷BELLEのメンバーだ。作陽高の教え子たちのお話もかなり面白いけど、今回は湯郷BELLEにしよう。

宮間あや選手や福元美穂選手をはじめ、説明し始めたら次々と面白いエピソードが言えそうな錚々たるメンバーでした。

毎日その選手たちに手を焼きましたし、監督にも何度か怒られた(笑)

じゃんけん一つにしてもグーしか出さなかったですけど、駆け引きしました。

選手への接し方・サッカープレー中の技術をみせる事・戦術理解をさせるために動きでみせる事を普通に選手としてもやるべきことを違う角度から見て・考えて・行動の連続でした。監督のやりたいことを自分に落とし込むことも必死で、試合のビデオをどれだけ観たでしょう。頭のフル回転は半端なかったように思う。

本田美登里氏にサッカーの奥深さを学び、初の経験の場で多くの出会いがありました。

少しはサッカー上手くなったと思います。これからにも生かそう。